軸の定義が無い対立(愛の反対は憎悪か無関心か)


ノーベル平和賞を受賞したマザーテレサが言ったとされている言葉に「愛の反対は憎悪ではない、無関心である。」というものがあるらしい。一定の説得力があり、今でも引用する人をチラホラ見るうえ、「憎悪は一種の愛情である。」みたいな考えすらある。しかし、一方で次のような意見はどう見えるだろうか?「私はあの人にいじめをされていた!その時に生じたトラウマで今も社会生活に支障が出ている。憎たらしくて仕方がない!」もし、こんなことを言っている人に例の言葉を掛ける者がいるのなら、想像力の欠如にも程がないと言わざるを得ない。ではなぜこのような食い違いが生じるのだろうか?私は「軸の定義がされていない」これが理由であると考える。

x軸とy軸からなる数直線があったとき、点A(2,3)とすると、反対(対称)となる点は(-2,-3)である。だが、X軸において対称な点と言われれば、(2,-3)である。多少強引だが、これを例の言葉に当てはめてみよう。点の場合は(x成分、y成分)と要素分解したが、(愛や憎悪や無関心)といった言葉に関しては(対象への関心、対象への好意)と要素分解ができる。そうした時に、それぞれ次のように言えそうだ。愛(正の方向に大きい、正の方向に大きい)、憎悪(正の方向に大きい、負の方向に大きい)、無関心(原点、原点)である。

こうして見てみると、無関心が他の感情に対する「反対」と言えるかどうかは怪しくなってくる。むしろ、無関心は愛や憎悪といった感情が欠如している状態と言えるかもしれない(つまりここの軸では、マザーテレサの言葉は論理的にズレてはいる)。しかし、この要素分解が示すのは、議論や言葉が食い違う理由の一つが、各人が異なる軸を基準にして考えているからだということだ。同じ言葉や概念でも、その背後にある軸が違えば、全く異なる意味を持つことがある。さらに、どのように要素分解するかは個人によって異なるため、そこにも大きな個人差が生じる。また、感情や価値観を捉える軸は、ここで示したようなシンプルな二軸に限られず、実際にはもっと多くの軸が存在するだろう。

例えば、相手が「反対」と考えるものが、自分の軸では「欠如」として捉えられる場合もあるだろう。こうした軸の違いが、マザーテレサの言葉に対して感じる違和感の正体でもある。議論がかみ合わないと感じるとき、それはお互いが異なる軸を使って話しているからかもしれないし、それぞれがどの軸を重視しているかにも差があるからだ。要するに、軸(要素分解の仕方)が違えば反対の定義も違ってくる。それが、マザーテレサの言葉に対して感じる違和感の正体だと言えるだろう。

こうした言葉や議論が食い違いは珍しくない、そんな時今自分や相手は何を軸に考えているのかを見直すことが、相手の意図を理解し、不毛な議論を避けることに役立つかもしれない。

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